敵を知り己を知れば百戦して危うからず


と言いたいところですが、小さな命と日常接する人たちは戦うことはなるべく避けましょう。

私の経験上、何か後悔するような事故や失敗は心身に負の要素を抱いているときが多いです。

喧嘩に勝ってスカッとしても、同時に相手の憎しみや悔しさも浴びせられます。

命と接する時は、さわやかなコンディションを心がけましょう。


しかしながら戦わざるを得ない場合もあります。

今戦わなかったら必ず将来後悔するという時です。



戦うならまず相手をよく知りましょう。

以下、あなたとあなたの鳥の幸せのためにお役に立てれば幸いです。



人間の種類

先日ある学者から面白い風刺を聞きました。

人には2種類あります。鶯型(うぐいすがた)と齧歯類型(げっしるがたい)です。

 鶯型は時代や環境が変わっても、いつも楽しく歌って過ごす人。

 齧歯類型はどんな時代や環境にいても、いつも何かに噛みつかないと生きていけない人です。


アンチは本当は何を恐れているのか

さて、これは私のサイトにあるインコのフリーフライトのオンラインコースを揶揄したツイートです。

出典: @rina_rina_popo


私が「商売をするために必死にフリーフライトを擁護している」というようなコメントが付けられています。

これに100件ものリツイート(シェア)がなされ、コメント付きのもははすべて同様に私を罵るようなことが書いてあり、その100件の先でまた多く同様のコメントがあふれています。

この盛況ぶりを見ると、本当に必死なのはどちらであるかは一目瞭然ですね。


インコのフリーフライトという文化は今まさに日本に芽生え始めたところです。

それをアンチたちはどうしてここまでて一致団結して叩き、意地になっ潰そうするのでしょうか?

一同に「鳥の命が・・、環境が・・」と言いますが、それは嘘だと論破できます。

ツイッターのアンチによる醜いコメントについて (参照、別頁)


では、「家からの迷子は良し、猛禽類も良し、鳩も良し」という者たちが、どうして「”インコのフリーフライト” だけは絶対に許してはならない」という、謂わば強迫観念に駆られたような行動を取るのはなぜでしょう?

彼らが本当に恐れていることは何なのでしょうか?


実はこれは難しい問いではありません。

鳥の種類の問題でもなく、町内会でも学会でも政界でも、古今東西あらゆる分野で誰かが新しいことに挑戦すると、必ず群がって足を引っ張る者 = アンチがいます。

その心理はいたって単純です。


アンチが本当に恐れているものとは、「自分が過去の人になる」ことです。


フリーフライトが一般化し新しい事実が世の中に認知された時、自分が主張してきたものや、信じて従ってきたものが崩れ去ってしまうという恐怖です。

そして

「昔は鷹や鳩はいいのに、インコは絶対外に出しちゃだめって言われてたんだって」

と言われる時代が来ることへの抵抗です。


  • 鳥の脳は幼児並みだから、一度外で飛び立つと帰り道が分からなくなる
  • インコは弱いから外に出るとすぐにカラスに食べられる

「だから決してインコを外に出してはいけない」


  • 鳥は飛ばなくても歩くだけで健康は保たれる
  • ペットのインコは外に興味がない
  • 野鳥は食料を探すために仕方なく飛ぶけど、本当は飛ぶことが好きではない

「だから鳥は家の中にいる方が幸せだ」


今あからさまにフリーフライトを非難し、フリーフライヤーに誹謗や中傷をしている者の中に、このように主張してきた飼育本の著者や獣医、セミナーの主催者、ペットトレーナー、ペットブロガーたちもいます。

それがもしフリーフライトが身近なものになると、彼らのデマや思い込みは覆され、

  • インコは訓練すれば心身ともに野鳥並みのスキルを身に付けることができて、
  • 歓喜の声を上げて空を舞い、
  • そのことが心身ともに健康の維持に繋がる

ということが一般の人にも周知の事実となります。


その変化が訪れるとき、鶯は未来を祝福して歌い、齧歯類は自分を卑下して噛みつきます。


自尊心に偽りなく前向きに生きている「幸せな人」は他人を攻撃しません。

意見は述べても、相手を傷つけたり蔑んだりすることはありません。

幸せなら今自分が主流派か少数派かと気にしません。


アンチが攻撃的になるのは世の中が変わっても今の自分を保つ自信がないからです。

主流から逸脱し忘れ去られるという恐怖からです。

いつも群がるのはまだ自分が最期の一人でないことを確認するためです。


この心理は、悪役を演じたタレントを自殺するまで責め続けた輩のものと同じです。

「幸せな人」は他人を攻撃しません。

アンチはすべて「不幸な人」です。



敵の正体をしれば恐れはなくなり、子供を相手にするような余裕が生まれます。


例 1

例 2

例 3